由緒

普門軒 | 由緒

FUMONKEN

普門軒について

京都で唯一の國泰寺派の寺院です。


 普門軒の本山は、富山県高岡市にある大本山國泰寺です。普門軒の起源は、國泰寺の御開山である慈雲妙意禅師(1274~1345)が朝廷に参内するために京都を訪れた際、一時足を留めた地に開かれたことにあるとされています。 一度焼失し廃寺となりましたが、國泰寺の老僧が京都へ参内する際の宿所として必要とされたため、御開山の法系にあたる珠山慧明和尚が、寶暦元年(1751年)に再建しました。 
 この珠山慧明和尚が普門軒の開山様です。 
 当初、普門軒は京都の西陣と呼ばれる地域にありましたが、昭和5年に現在の地へと移転しました。

お寺の名前と御本尊様について

観音様ゆかりのお寺です。

「普門軒」の「普門」とは、観音様の別称です。 
 観音様が広く門を開き、あらゆる衆生の声を聞いて救済されることに由来しています。
 ご本尊は、子安十一面観世音菩薩です。安産や幼児の健やかな成長を守護する観音様として信仰されています。

本堂

臨済宗について

臨済義玄を派祖とする公案禅です。


 日本には鎌倉・室町時代を頂点として、二十四流の禅が到来しましたが、そのうち曹洞系三派を除き、他はすべて臨済系です。臨済禅は京・鎌倉にあって武家階級と交渉を持ち、京都五山(南禅寺、天龍寺、相国寺、建仁寺、東福寺、万寿寺)や鎌倉五山(建長寺、円覚寺、寿福寺、浄智寺、浄妙寺)を中心に展開し、特に文化的な面で日本史に大きな足跡を残しました。 
 現在の臨済宗の宗風を決定したのは江戸時代に出現した白隠慧鶴であり、現在の法系のほとんどがこの白隠下の流れをくんでいるといわれています。
 現在、日本臨済宗には十四派の大本山があり、國泰寺はその一派です。
 臨済宗では特に一定の礼拝の対象があるわけではありませんが、釈迦牟尼如来の像が祀ってあるのが普通です。普門軒が観音菩薩を祀っているようにのように、大乗仏教の理想像である菩薩の像を祀ることもあります。

本山案内

國泰寺は北陸路には数少ない臨済禅の道場です。


 國泰寺は臨済宗國泰寺派の大本山です。 
 御開山の慈雲妙意禅師(1274~1345)は、行脚の後、二上山の幽邃の境にひかれて、山中の草庵で独り坐禅に励んでいました。たまたま通りかかった孤峰覚明(三光國師)に誘われて、紀伊由良の西方寺(現 興國寺)の無本覚心(法燈國師)に参じて大悟するも、まもなく師の遷化に会い、二上山の旧居に帰り悟後の修行に励みました。 
 やがてその禅風を慕って雲水が集まり、嘉元二年(1304)には摩頂山東松寺を開創。嘉暦二年(1327)、参内して後醍醐天皇に仏法を説き、「清泉禅師」の号を賜り、翌年には「護國摩頂巨山國泰仁王萬年禅寺」の勅額を下賜され、京都五山の更に上位に位置する南禅寺と同格の勅願寺となりました。興國三年(1342)には南朝の後村上帝より後醍醐天皇の御肖像が送られ、「臨幸に代える」との御宸翰あり。天皇殿の在る所以です。 
 その後、守護代神保氏の崇信を受けるも、応仁以後の戦乱により荒廃しました。二十七世雪庭和尚は後奈良天皇の論旨を受けて再興するも、天正十三年(1585)前田利家に方丈を没収され、守山城の書院に転用され(前田利家安堵状)、後に現在地に移ってきました。 
 江戸時代になって、貞享三年(1686)には現在の大方丈が建立され、五代将軍綱吉は当寺をもって法燈派総本山とし、享保年間には萬壑和尚等によって伽藍の大整備が行われてほぼ現在の形となりました。 
 明治維新では廃仏毀釈の余波を受けましたが、越叟・雪門両和尚は、山岡鉄舟の尽力を得て、天皇殿の再建をはじめ諸堂宇の修造に努めました。また、西田幾太郎や鈴木大拙が若き日に北条時敬の勧めにより雪門に参じました。 
 明治二十五年、虚無僧尺八の妙音会設立され、法要の時には読経と法竹(尺八)の合奏という独特の習慣があります。特に開山忌(六月二日・三日)には全国から二十名ほどの虚無僧が集まり、古刹に響き渡る妙音は風物詩となっています。 
 先住心田和尚は「人命尊重」を祈願して利生塔の建立、月泉庭や龍渕池(放生池)を整備し、大衆のために禅堂を開放して団体・個人の坐禅指導に努めました。 御開山の「己事究明専一なり」の言葉を奉じて、現在も大衆に開かれた禅道場を目指しています。 
 明治三十八年(1905)臨済宗相国寺派から臨済宗國泰寺派として独立した國泰寺派寺院は、令和2年現在、全国に三十三寺院あります。富山県内に本山含む二十四寺院、東京都に二寺院、石川県に六寺院、京都府には一寺院(普門軒)のみです。